昨日の朝、長野市を出る頃は心地よい雨だった。
随分と昔、アメリカ西海岸が明るく若者の熱気に満ちていた頃、当時すでに世界的に知られていた音楽評論家のポール・ウィリアムスの家に泊まり、翌日バークレイの街を案内してもらったことがある。「霧は多いけど雨は少なくてね、この街には久しぶりの雨だ」と嬉しそうに傘などささず、サンフランシスコ大学の構内を濡れ歩いていた。おかげで、穏やかな雨でも、遅い朝食をとりに学生食堂に着いた頃には二人とも随分と濡れていたことを思い出していた。
・・・・・・そんな心地よい雨だった。
1時間ほどドライブして松本市美術館に着いた頃には雨は本降りになっていた。
柳宗悦展を足が棒になるほど楽しんだ後、草間彌生ブースはパスして、行きつけの喫茶で一休み。久しぶりの休日の締めくくりに井筒信一さんの喜寿のお祝いに駆けつけた。
この日の最終目的地は松本深志高校に隣接する『深志教育会館』。トンボのマークがユニークな粋な建物だ。
井筒信一さん・・・・・・若い時からのバイオリン製作者で、もう長く松本市におられる。
次男がキャンドル・ジュン、その奥さんが女優の広末涼子さんだったため、最近は週刊誌などにも書かれたりもしたが、ご本人はカトリックの敬虔なクリスチャンだそうだ。
たまたま、カミさんが若い時に井筒さんご夫妻にお世話になり、お子さんたちとも遊びながら住み込みでバイオリンづくりを教えていただいてたそうだ。その縁で、私も3、4回程、古い農家の母屋だったご自宅兼仕事場にお邪魔した。
大変お忙しい方だが、カミさんのせいか、訪れた時はいつも仕事を止めて、ご夫妻でお相手をしていただいた。奥さんとうちのカミさんの話はほっといて、イングリッシュガーデンとも、キッチンガーデンとも、イヅツガーデンとも呼べる、不思議な庭+畑を案内していただいたりもした。
アメリカ在住の息子さんから、100年以上も民家の屋根裏に寝ていた楽器材料の板が見つかった、という国際電話がかかった時には、奥さんを拝み倒して通帳のお金を全部引き出して翌日には渡米した、なんて話もお聞きした。
そんな方だから、お金があるようで無いような方だ。「僕のうちは貧乏でしょ、できる野菜はなんでも作るの。ただ忙しくてほったらかすし、農薬は使わないから虫たちが勝手に横取りするんだよ。でも、できた野菜は晩秋の一つまで全部いただくんです。美味しいですよ」と野菜をつまみ食いしながら庭を案内していただいた。
この方の楽器にはいつも物語がついてきそうな作り方に感じる。
材料のカエデやアカエゾマツの板切れにも、かつての山間の風の音や、枝葉を見上げていた人々の声が沁みているだろう。「ついでの客」の私にも、何でも話してくれるような井筒さんの思いを込めた仕事ぶり、ノミの一彫り一彫りは、そうした板切れたちとのおしゃべりのようにも見える。
1970年に松本深志高校を卒業したかつての若者たちが古い校舎が建て替えられるのを惜しんで、取り壊された階段の踏み板を保管していて、3年程前、井筒さんに相談された時、たくさんの板切れに悩んだ末、カルテットにされたという。バイオリン2本、ビオラとチェロが1本ずつ・・・板切れたちが夢の中でつぶやいたような物語。幸せなことに、このチェロの裏板を私も少し彫らせていただいた。
昔から小さな子供の手に合わせたサイズの楽器も丁寧に制作し、貸しておられ、仕事場の一部を子供たちのバイオリンとチェロの教室に開放しておられる。この方のバイオリンには材料探しや制作の手間がかかっているが、人をもてなす時間や思いやりもかかっている。おそらく、いい音色を響かせる楽器への夢もかかっている。いろんな思いを込めた優しい楽器であることは間違いない。
だから、この方の喜寿のお祝いは優しく楽しい集まりだった。
特に井筒さんの教室でチェロの講師をされている妹さんから井筒さんの事を聞いて感激されたという
桜田ゆみさん(
http://sakurada-yumi.com/info_list.html?m=2013-05)という素晴らしく多才な43歳の女性が一肌脱いで?脚本・演出・構成をすべて買って出て、弦楽器のための楽しい音楽童話の喜寿お祝いに仕上げられた。

この喜寿のお祝いを楽しんで、つくづく感じたのは「人徳」という言葉だった。
人の徳は生まれながらのものでなく、人が人と出会いながら、自分の心に育むもののような気がする。井筒信一さん程には到底及ばないものの、わずかでも、徳と呼べるものを積み重ねたいものだと思う。
井筒信一さんを大切に想う人々の中で、少し他人の幸せと大切な何かを分けていただいた。
5月初め、夕方の会場に向かう雨の中では藤の花が空から咲いていた。